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教育・研究

山浦ゼミ11月7日(火)山本一清さん講演
太平洋戦争時に特攻隊員として訓練を受けた父親のこと・学童疎開についてお話を伺いました。

写真:山浦ゼミと山本一清さん(左から3番目)


◆調査の始まり

山本さんのお母さま(山本洋子さん)は、戦時下や終戦後の生活について手記を残していました(昨年度制作した「若者たちへの伝言」 でも一部内容を編集して収録)。
手書きの手記は旧仮名遣いで書かれていたため、ワードに書きお越しながら読み進めていったそうです。
洋子さんは上田市内出身の方で、のちに夫となる山本さんのお父さま(山本琢郎さん)に市内で出逢いました。山本さんはその手記の中で、自分の父親が特攻隊の生存者であることを知りました。
また琢郎さんが、酔った時に必ず口ずさむ真室川音頭から、真室川分教場(山形県最上郡真室川村)にいたことも推測できました。
そこから、父親の足跡を辿るべく調査を始めたそうです。

当時離れて住んでいた家族たちに、父親の戦争時代の資料を探してもらい、その中に履歴書を見つけたそうです。公務員をされていたお父さまは、詳細に異動の記録などを残していました。しかし、戦争に関わる記述は、たったの2行でした。
◇残された二行の履歴
昭和18年(1943年)10月1日 仙台陸軍飛行学校に入校
昭和20年(1945年)8月15日 招集解除を命ぜられる

この行間を埋めるべく、本格的に山本さんの調査が始まりました。
まずは、母親の手記で見つけた「特別操縦見習士官」のキーワードを検索することから開始しました。

特別操縦見習士官

投影したスライドの資料を見ながら
お話しをうかがいました。

特別操縦見習士官とは、昭和18(1943)年7月に新設された制度であり、高等教育機関を卒業後または在学中に志願して選抜され養成教育をうける者で、「特操」、「学鷲」とも呼ばれました。
日本軍はガダルカナル島での激戦により多くの戦死者を出したこともあり、短期間での操縦士の育成に迫られていました。
少年飛行兵からの教育では追い付かず、海軍で採用されていた大学などの高等教育を受けた者に対して行う飛行科予備学生の制度を参考にして作られたのが、陸軍の特別操縦見習士官でした。
特別操縦見習士官の受け入れ校として、仙台陸軍飛行学校がありました。
山本さんは自分の父親は恐らくそこに入ったのではないか。調べていくうちに飛行学校の分教場についても分かりました。
日本陸軍の軍学校のひとつとして、熊谷陸軍飛行学校がありました。熊谷陸軍飛行学校には30近くの分教場がありました。仙台陸軍飛行場も、真室川陸軍飛行場も、上田陸軍飛行場もそのひとつです。

訓練の日々

琢郎さんは、約4ヶ月にわたって、飛行訓練を受けました。
練習用のふたり乗りの飛行機(練習機)「赤とんぼ」に載って(前に練習生、後ろに教官)、基本訓練から旋回や宙返りなどの操縦法を習得していきます。ひとりで操縦ができるようになることが訓練の目的でした。
飛行学校を卒業するときには、1枚の紙を渡されます。
特攻隊への志願について以下の3つの選択肢から選び、階級・氏名を記載のうえ提出することを求められたのです。
・希望する
・希望しない
・熱望する
「父親は熱望するに丸を付けて出したのではないか」山本さんは推測します。

と号部隊(特別攻撃隊)

陸軍の航空機による艦船に対する特別攻撃部隊(特攻隊)、「と」とは特攻隊の略号。
「飛行機全体を爆弾にして敵艦に体当たりするのが効果的ではないか」陸軍上層部により特攻隊の発想はこうして生まれました。戦時下にあって国民全体に精神的鼓舞を与える狙いがあると信じられていました。
特攻のための訓練を受けた者であれば確実な戦法だと考えられたそうです。
陸軍の突撃の戦法を応用した発想であったそうです。
山本さんは父親の部隊が本土決戦のために編成されたのではないかと推測しました。
「特攻隊」「特攻隊 山本琢郎」でネット検索しても情報は出てきませんでした。ところが「振武隊 山本琢郎」で情報を見つけることができました。

振武隊・西往寺

「振武隊 山本琢郎」のキーワードがヒットしたサイト内に以下の記述がありました。
陸軍特別攻撃隊振武隊 天翔隊
山本琢郎隊長以下6名
滞在期間:昭和20月7月 出撃出来ず終戦

(山本さん資料より引用:http://miida.cocolog-nifty.com/nattou/2008/03/post_1f33.html)

振武隊とは、沖縄戦における特別攻撃隊であり、飛行部隊の総称です。
目達原(めたばる)飛行場近くに「西往寺」(佐賀県)というお寺がありました。西往寺は特攻隊員たちの出撃前の待機場所でした。滞在した特攻隊の中に琢郎さんの隊がありました。

山本さんは、西往寺へ連絡をして、調査のために訪れました。
特攻隊員たちが滞在した部屋や父である琢郎さんが残した名簿などを目にしたそうです。
その中に現住所や略歴の記載を見つけました。
昭和18年(1943年)10月1日 仙台陸軍飛行学校入校
昭和19年(1944年)3月19日 同校退校
昭和20年(1945年)1月第3練習飛行隊附

琢郎さんは、仙台陸軍飛行学校の後に、上田の飛行場あるいは真室川の飛行場に行ったのではないかと思われます。
さらに調べていくと、山本さんは、ネットで振武隊編成表を見つけました。第275振武隊の名簿の中に父の名前を見つけたのです。

第3練習飛行隊

山本さんが入手した様々な資料から以下のことがわかりました。
第3練習隊は仙台で編成され、南方に行く予定であったが、急遽取り止めになり、仙台を経由して八戸に集められ、八戸で訓練を積みました。その後、出撃準備のため真室川に行ったことが書いてありました。

疎開児童・特攻隊員の触れ合い

西往寺の住職さんからも、追加で情報を得ることができました。
「7、8年前に山本少尉(山本琢郎さん)に書いてもらった絵などを綴ったものを西往寺に奉納した人がいる。その方に連絡をしてみてはどうか」住職さんの情報により、山本さんは連絡をしてみたそうです。
その方が、山形県鶴岡市近郊の湯野浜温泉にあるホテルに家族で滞在しているときに、琢朗さんたちの部隊も同じホテルに滞在していたそうです。
比較的裕福な一家で、空襲が続く東京を離れて湯野浜温泉に疎開に来ていました。東京を離れた1週間後に山の手空襲(昭和20年4月~5月)があり住んでいた都内の家が全焼してしまったそうです。
特攻隊員と疎開一家とのささやかな交流の一端があったことがうかがえます。

『生きのこる~陸軍特攻飛行隊のリアル』出版

山本さんは、調査してわかった様々な事柄を1冊の書籍にまとめました。
書籍は、メディアに取り上げられたため、記事やニュースを見た人からもさらに情報が寄せられたそうです。
寄せられた情報をもとに、さらに調査を深めていきたいとのことです。

今回、山本さんは、調査の主な手法としてインターネットを活用されたそうです。かなり古い時代のこともネットの情報を検索することによって調査の糸口やヒントを見つけることができたそうです。ひとつの糸口から関連することを見つけ、さらに調査を深めていったそうです。
また個人の方で、かなり専門的に調べているサイトなどもたくさんあるとのことでした。

まとめ

山本さんには、1時間半以上にわたって、多くの資料を見せこの他にもたくさんのことをお話しいただきました。後半では、学童疎開とその背景についても詳しくお話しいただきました。貴重なお話しをしていただきましたこと、ありがとうございました。

学生たちは、初めて耳にすることも多く真剣に山本さんのお話しに聞き入っていました。

4年 岡田輝さん:
今年は疎開をテーマに取り組んでいて、特攻隊と疎開先の学童たちのお話しをたくさん聞けて非常に良かったと思います。今日、お話ししてくださったことを若い世代に伝えて行きたいと思っています。今日はありがとうございました。

4年 柳沢駿太さん
今日見せていただいた資料など、山本さんが一生懸命調べられたことを説明していただきまして、今日とても疎開についての理解が深まりました。ありがとうございました。

4年 高田一吹さん:
疎開先の方々の交流など、お話しがすごく聞きごたえがありました。今現在、疎開先についての資料を作成しています。今日お話しを伺えたことで、良い資料を作成できるのではないかと感じています。今日は、ありがとうございました。

3年 上野未来さん:
特攻隊員についての歴史や資料などを見せていただいて、より特攻というものについてリアルに感じることができました。今日はありがとうございました。

3年 伊藤果穂さん:
人々のために自分の命を捧げた方々のことを詳しくお聞きできました。ありがとうございました。
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