1月9日、長野市で行われた一般社団法人長野県経営者協会主催の令和8年新春講演会・賀詞交換会に参加した。毎年の恒例行事で県内企業のトップが集う会である。新聞報道によると出席者は約320名。大学関係者は来賓として招待された。筆者は一昨年からの参加である。新春講演会は毎年、馴染みのある方が講師として招かれている。私が参加した過去2年の講演会講師は、著名なスポーツ選手であった。その流れで今年は、ロンドン五輪女子柔道金メダリスト、リオ・デ・ジャネイロ五輪銅メダリストの松本薫さんである。毎年楽しい話が聞けるので、楽しみにしている。
司会者から「講師の入場です。」と声がかかり、講師の松本薫さんが白っぽいベージュ色のスーツを爽やかに着こなし会場に現れた。現役は引退しているが、アスリートとしてのオーラがあふれている。5兄弟の4番目として石川県金沢市に生まれる。幼年期より親の勧めで兄姉と同じ金沢市の柔道場である岩井道場に通い始める。2006年帝京大学入学、2015年(株)ベネシード柔道部創設から同部所属。ロンドンオリンピック2012大会で金メダルを獲得、リオ・デ・ジャネイロオリンピック2016大会で銅メダルを獲得したことで、オリンピック・世界選手権・ワールドマスターズ及びすべてのグランドスラム大会を完全制覇した最初の選手となった。2019年現役引退後「ダシーズギルトフリーラボ」で製品開発から販売まで携わる。2019年12月に第二子を出産し、二児の母として日々子育てに奮闘している。
2012年 石川県県民栄誉賞、東京都栄誉賞、都民スポーツ大賞受賞。紫綬褒章受章
2024年 製菓衛生士(国家資格)取得
著書として『夢をつなぐ』(アスペクト・2012年)、『野獣の子育て』((株)北國新聞社・2024年)
講演のテーマは、「『野獣が見つけた、本当の強さ』~挑戦はいつからでも遅くない~」である。始めに自己紹介があり、柔道と自分の関わりついて話し始めた。
凡人からのスタートで、才能もなく目標もない。そもそも柔道は好きではなかったと言う。意外な講演の始まりだった。骨折は40回以上。中学生まではわざと2回戦で負けていた。なぜ2回戦かというと、まだ誰も試合に注目しないうちに負けるので、注目されることはなかった。それで良かった。勝ち進んでいくと注目され、負ければいろいろ監督から指導される、それがいやだった。高校生になり、早く自由になりたくて一端東京へ行くも、全く柔道で強くなりたいとは思わず自分の将来も描けなかった。面倒を見切れないということで、17歳で金沢に戻る。しかし、柔道への情熱を持ち合わせていなかったので遊んでばかりいて、練習もさぼりがちになったため、高校柔道部から見放された。これを契機に柔道もきっぱり辞めるつもりだった。しかし、今さら柔道を辞めても自分には何も残らない、中途半端で終わらせてはいけないと思い至って、それからは心を入れ替えて柔道にも自発的に取り組むようになった。でも決して綺麗なものではなく、今まで自分にダメ出しをした人達を見返したい、その一心であった。自分には才能はない、日本で一番になれるかもしれないが世界一には絶対なれないと強く感じていた。ここから松本さんの試合に勝つための戦略が練られる。つまり心理戦に出る。対戦相手とはじめ「よろしくお願いします。」と笑顔で軽く挨拶をする。相手は普通の相手だなと思う。しかしその後上目遣いで真剣に相手をにらむ。顔が怖くなっている。相手はびっくりする。予想もしない展開になると相手は想像ができずパニックになる。これを畳の外で行う。これが「野獣」作戦である。そうするとパニックのまま試合になる。予想がつかないので相手が反則を犯す。自分にポイントが入る。思うがままに試合が展開できる。従って、強い相手を見るとワクワクしてくる。良く相手を研究する。何を考えているか分からないヤツになる。これが「野獣」の原点とのこと。決してスマートなものではないという。
柔道と向き合う覚悟がだんだん芽生える。そして今までは周りを見ず、自分一人と思っていたが、よく考えてみると周りの人達に支えられていたことに気づく。ロンドンオリンピックには、母を是非連れて行きたいと考えた。母は金沢から出たことがなく、母を喜ばせてやりたいと強く思った。自分のためではなく誰かのために尽くすことの方が幸せと感じるようになった。リオ・デ・ジャネイロオリンピックでは父に試合を見せたいと思い連れて行った。リオでは、銅メダルであった。決勝戦で負けた後、3位決定戦でのモチベーションをどう作ったのか、会場から質問が飛んだ。面白い回答が返ってきた。それは、日本に帰国した際の空港での対応である。メダルを取った選手と取れなかった選手への対応がまるで違うのである。まず、メダルを取れなかった選手が普通に出てくる。その後メダルを取った選手が脚光を浴びながら出てくる。この違いは半端ではない。メダルを持たないで返ることは是が非でも避けなければならない、その一心で3位決定戦に臨んだと言っていた。なお準決勝戦で負けたのは全くの油断であった。準決勝の相手には今まで一度も負けていなかった。従って楽勝だと思って油断をしてしまった。すべて後の祭りである。唖然としたことを鮮明に覚えているそうだ。勝負の世界では何が起こるか分からないことをあらためて伺った。
講演の最後には、柔道の技についてそのポイントを披露してもらった。会場から一人壇上に出てもらい実技を通しての説明である。背負い投げ、一本背負い、内股などの技について説明してくれた。一番印象に残ったのは一本背負いの技のかけ方。相手の腕を引き寄せ自分の肩に背負い投げる技である。ポイントは相手の腕を掴み一度下げる。すると相手はその反動で自分の腕を元に戻そうと上げる。その反動をうまく利用して相手の腕を抱え込むということである。人間の心理・動きを利用して技を仕掛ける。なるほどと感心した。その他、万が一誰かに襲われたときの脱出方法も実演を交えて教えてくれた。だんだん熱が入り、普段の口調で人間性が表れ実に楽しかった。
1時間半の講演があっという間に終わった。現在は、アイスクリーム製造と販売の会社を立ち上げ、自ら現場にたち商売をしている。元々柔道ではなくこの商売をやりたかったと熱く語っていた。柔道という個人種目で勝負するのは、相手と言うよりも自分との戦いで、孤独で辛いものであるとあらためて感じた。
松本さんに見せていただいた(筆者撮影)