
平和について(SDGs16)活動するPeace Eduのメンバー2人が「無言館」館主でもあり、「残照館」館長の窪島誠一郎氏から貴重なお話を伺うことができました。
Peace Eduは昨年度まで開講されていた山浦ゼミのメンバーが中心となって今年度新たに作られたグループです。太平洋戦争時の人々の暮らしなどヒアリング調査を行いながら、「太平洋戦争を語り継ぐ活動」を続けています。
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インタビューは、KAITA EPITAPH 残照館(旧「信濃デッサン館」)にて行われました。
インタビュアーは、Peace Eduメンバーで社会福祉学部4年生栗林果穂さんと上野未来さんです。
上田市前山にある残照館を訪ね、窪島館長から「無言館」に懸ける思い「残照館」に寄せる思い、次世代を担う若者たちへ伝えたいことなどをお聞きしました。
残照館が創られるきっかけとなる槐多との出会いについて

机と椅子は福島で被爆した木材を活用して制作されとのこと。
村山槐多との出会い~村山槐多に魅せられて~
残照館が創られるきっかけとなる槐多との出会いについて伺いました。
1941年、東京に生まれた窪島さんが、17歳の時村山槐多(むらやまかいた)の画集と出会ったことから始まります。
横浜で生まれた村山槐多(むらやまかいた 1896-1919)は、上田にゆかりのある画家 山本鼎(やまもとかなえ)のいとこにあたります。
槐多は「夭折の洋画家、詩人画人」称され、その絵は原色を多用した大胆な筆致で知られます。17~19歳の時にここ上田に滞在し、多くの作品を残しました。
『槐多は、従兄の山本鼎の家にひと月ほど滞在しながら、今の東御市の大屋、和(かのう)などで風景画を描いたんです。その当時の絵が、きっと残っているだろうと思い、集めたのが始まりでした』
槐多は、1918年から1921年にかけて世界的に流行したスぺイン風邪に罹りわずか22歳という若さで夭折します。
スペイン風邪は人類史上最も死者を出したパンデミックのひとつであり、約40万人がなくなりました。そのうちの20万人が若者たちでした。
窪島さんの青年時代
窪島さんは、22歳の時、色々な仕事を経験し、靴の修理や居酒屋も開業したそうです。
『昭和の時代は、なんでもOKの時代だったように思います。全員が我を忘れていた。高度成長でしたし、東京オリンピックもありました。当時、一家3人暮らしで3畳1間でした。その家を改造してお店をつくりました。おりしも高度成長期と重なり、経済は右肩上がりでした。
東京の明大前で店を出していましたが、マラソンでエチオピアのアべべと日本の円谷選手が競って店の前の沿道を走ったんです。ものすごい人が応援に出ていました。それで、おにぎり弁当を作って売り出したんです。反対もあったんですけど、そうしたら、それが大当たりしてものすごく儲かったんですよ。夜は、居酒屋でしたから賑わいましたね。ジュークボックスなんてのもあってね。人気があったね。
朝7時から夜中の2時、3時まで営業してました。昼間はコーヒー等のカフェ。夜はお酒を出しました。
当時は、「一戸建て」、「人並みの生活をしたい」これでしたね。「300万人も戦争で亡くなったことなど考えていませんでした。
この先に原発があることは、全く考えもしなかったんです』
東京から槐多のゆかりのあった上田へ ~夭折(ようせつ)画家たちの美術館をつくりたい~
『商売が成功したことで生活の基盤ができ、20代初めの頃から、槐多を始めとする夭折画家たちの絵をこつこつと買い集めました。絵好きが嵩じてやがては画廊をオープンすることになりました。やがて槐多の足跡を辿って何度か訪れていた上田が気に入って、夭折の画家たちの美術館を創ることになるのです。33歳の時上田に引っ越したんです』
前山寺の奥さん「ふみさん」との出会い(97歳で逝去)
『前山寺は、くるみのおはぎが食べられることで有名ですが、その前山寺のふみさんに相談しました。
「村山槐多をはじめとする夭折画家たちの美術館をつくりたい」とお願いに行きました』
すると、ふみさんは、次のようにお話したそうです。
「窪島さん。あなたが、目を輝かせ熱く語ってくれたのは本当にうれしいです。ただ、信州というところには、よそ者を受け付けない土地柄があるんですよ。特に東信は強いんです。だから、このおばあに任せてください」
そのかわり、「虎屋のようかん3つばかり用意してきなさい。」私がお話してあげましょう。
『しばらくして、ふみさんの言うとおり、地元の皆さんの理解も進みました。この地に残照館をつくれることになったんです。この残照館を建てる際には、地元の人たちも大勢手伝ってくれました。
床は、線路の枕木を切って埋めています。全部手作りですよ。
わたしが、33,34歳の時でした』

「槐多忌」と野見山暁治さんとの出会い~ふたつの命~
『村山槐多の命日は、1919年2月20日です。
2019年1月16日に、信濃デッサン館(現KAITA EPITAPH 残照館)では、彼を偲んで第40回「槐多忌」を開催しました。「槐多忌」は40年間続きました』
『14回目の槐多忌の時に画家の野見山暁治(のみやま ぎょうじ)さんをお招きしたんです。この時、夜は別所の花屋(旅館花屋)さんに泊まりました。当時は、新幹線もまだなかったので遠路から参加した人たちは泊まっていったんです。
それで、私が野見山さんに言ったんです。
「なぜか、早死にした画家にひかれるんですよ。生身の人間が亡くなっても、その人の絵もこの世からなくなるのは嫌だったんです。絵が残れば死んでいないんです。だから、画人には、ふたつの命があるんです。」
すると、野見山さんが言ったんです。「無名の画家ではだめなのか?」
画家への志半ばで、出征して戦死した画学生たちがいる。その学生たちの作品を集めたらどうか。という話でした。
半月後、私は、練馬の野見山さんの画廊に行き、一緒に北は北海道から南は九州沖縄、種子島を回りました。ご遺族の家を訪ね、手紙と作品とか資料を全部渡してください。とお願いして回りました。そうするとね。ほとんどの家で兄の絵を弟の絵をよろしくお願いします。と涙を流しながら渡されたんです。
こうして、全国のご遺族から預かった絵は、残照館の入り口の部屋に保管していました。
するとね、それらの絵から声が聞こえるんです。
「もっと描きたかった」
「絵をかきたい」とね。
一つ一つの絵はへたくそだったけど、画学生たちは、学徒出陣で大学が繰り上げ卒業になり絵が描けなくなってしまったんです。
画家になりたかった。その夢をかなえられない無念の涙があったんです。
だからね、僕は無言館よりこの残照館にいる方が落ち着くんです』
無言館への思い~ふたりの母に捧げる美術館
無言館は、本来あってはならない美術館
続いて、無言館についても思いを伺いました。
『無言館の真っ黒なポスターを作りました。この時、信毎賞を受賞したんです。でもね、この美術館は、本来あってはならない美術館なんです。
戦没画学生、一人一人のご遺族の思いは決して忘れられるものではないんです。彼らの作品は、生きています。ですから、モノとして呼吸し続けていける環境をつくらないといけないんです。
だから、私も高齢になってきたので、新しい館長を選ばしてもらってふたり館長で行きたいと思っています。また、立命館大学(立命館大学平和祈念ミュージアム)にもバトンタッチしたんです。
村山槐多の魅力については、信濃美術館(現長野県立美術館)に行くとわかりますけどね』
昭和の時代に流された人生
『戦争について考えてみると、戦争によって一家が離散し、育ての親と一家3人で苦しい生活を送ることになったんです。
私は、生みの母と育ての母のふたりの母を持っているんです。戦争がなければ僕を手放さないよね。だけどね、生みの母を恨み続けましたよ。
育ての母は、靴の修理をしていましたが、本当の母の存在を教えませんでした。本当の母の存在を知ったのは、だいぶ後になってからでした。でもね、見ず知らずの僕を高校まで出してくれたんだから、今はありがとうと思っています。
父は、水上勉です。私が無言館を建てたときに「せいちゃんがつけたんだろ。これはいい名前だ」と初めて褒められました。
2016年(74歳)にくも膜下出血で倒れ、2018年(76歳)には、がんを患いました。退院後、3年間無言館の設立一本でやってきたんです。
だから、好きな絵画に囲まれて死んでいきたいと思っているんです。
無言館は、僕にとって母の美術館であり、ふたりの母に捧げる美術館なんです』
未来への展望
自分の最後の仕事として、福島の被爆地の浪江町(3.11)と沖縄県那覇市おもろまち(6.23)に年一回公開の美術館ができないか考えています。しかし、なかなか難しいんです。
若者たちへの伝言〜窪島誠一郎館長からのメッセージ
やりたいことがあったら挑戦してください。「金がないから」と諦めるのではない。金がないという人は、金持ちでもできない仕事ができるんだと思った方がいい。
大事なことは、一生懸命必死に努力し続ける真剣さが大切なんです。なぜならば、努力の仕方や人とのめぐり会い、その時のタイミングとか運不運が関係するからなんです。
夢がかなうことは、夢を失うことと同時なんですね。
夢がかなわないことは、むしろ幸せだと思うことではないかと思うんです。
ー2024年7月7日(土)上田市前山 残照館にてー
インタビューを終えて
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インタビューを終えて -
記念撮影(残照館入り口)
今回インタビュアーを務めてくれた栗林果穂さんと上野未来さんが、感想を寄せてくれました。
社会福祉学部4年 栗林果穂
窪島さんのお話の中で特に印象に残った言葉があります。それは、「無言館は存在してはいけない美術館である」というものです。無言館は戦争があったからこそ生まれた美術館であり、私たちへの戒めのような役割を果たしているのだと思いました。
戦争により夢を奪われ、命を散らした画学生たちは、今のわたしたちをどう見つめているのでしょうか。ぜひ一度、無言館を訪れ、彼らの魂の叫びに耳を傾けてみてください。
社会福祉学部4年 上野未来
「無言館は本来あってはならない美術館」「作品がのこっている限り彼らはこの世から死んでいない。」という窪島さんの言葉が印象に残りました。無言館はただ「戦没画学生を追悼する美術館」として存在しているだけでなく、絵を描くことが大好きだった画学生たちの、「もっと生きて絵を描きたかった」という声を受け止めながら、彼らの命を守っていく場所でもあると私は捉えました。画学生たちは戦没してしまいましたが、彼らの作品の命を今後も守っていく必要があると感じます。
最後にインタビューを快くお引き受けいただいた窪島誠一郎館長、残照館スタッフの皆様にこの場をお借りして御礼申し上げます。ありがとうございました。
今回のインタビュー記事は、この他の記事と合わせて年度内にリーフレットなどの形にまとめる予定です。