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平成25年度卒業式 野原光学長告辞

本日、ここにお集まりの社会福祉学部104名、環境ツーリズム学部50名、企業情報学部63名、計217名の卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。理事・監事および教職員一同、心よりお祝い申し上げます。またお忙しい中、多くのご来賓の方々のご臨席を賜り、厚く御礼申し上げます。そしてこの若者達を苦労して育ててこられた御父母の胸には万感の思いが去来していることとご推察申し上げます。
 さて、いまここにいる君たち4年生について言えば、ひとつのエピソードに触れないわけにはいきません。ちょうど今から3年半前、君たちのうちの10数人と1年生のゼミを一緒にすごしていました。男ばかりで、学生も教師もやりたい放題の滅茶苦茶なゼミでした。私が学長になるのに前後して教えた学生たちです。さすがに心配になったのでしょう、ある時6号館の前で、学生に呼び止められたのです。

「先生、今度学長になったんですか」
「ああ、まあな」
「へえー。てことは、入学式とか、卒業式とかに何かくっちゃべるんですか」
「まあ、そういうことになるんだろうな」
「えーっ、大丈夫ですか。それ、ちょっと前もって見せてくださいよ」
「えっ、何でお前に見せなきゃいけないんだ?まあいいや、じゃあメールで送るから、前もってみておいてくれ」
 ところが返事をよこさないのです。後日キャンパスで捉まえて訊いてみました。
「どうだ、あれでいいか」
「ああ、あれならオッケーでーす」

 この生意気でちゃらんぽらんな男も卒業生として、いまこの場にいます。ですから私は、今日は、この告示で、あの3年半前の仲間たちに、オーケーをもらえるような何かを話さなければなりません。
さてこの学生たちについて語るとき、私は、どうしても君たちの知性の水準の高さと、ものごとの奥行きを感じ取る君たちの感性の深さについて思わざるを得ません。
 ふたつ思い出を語らせてください。ひとつは社会と学校と家庭のひずみの重荷を小学校の頃から一身に背負って、心身にストレスがかかりすぎて、どうしても講義に出ることが出来なくなってしまった或る若者とのやりとりです。あまりにも怪しげな本を読んでいたので、「それもいいけどな、これを読んでみないか」と吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を手渡しました。これは10代の人間の「人生如何に生きるか」という自己形成上の悩みと社会をどのように認識するのかという社会認識とを不可分のものとして結びつけた、知る人ぞ知る不朽の名著です。戦前期に書かれたものですが、この移ろいやすい時代であればこそ、その光彩はかき消されることがありません。
 「どうだった」と、読後感を聞いてみました。彼はこう言ったのです。
 「うん、面白かった。だけど、ちょっと違うなと思った。この主人公には、人生如何に生きるか、という悩みしかない。問題が単純すぎる。問題がきれいすぎる。僕はこうはいかない」。
 つまり、社会と学校と家庭のひずみに由来する負荷を背負ってしまった彼は、人生如何に生きるかという悩みだけに終始することは出来ないのです。私は、この彼の批評のうちに、私が一個の社会科学者として、生きる支えとしてきた戦後市民社会派社会科学の知的エリート主義が、民衆の社会的現実を捉まえ損なったという盲点を突かれたことを、一瞬にして思い知らされました。同時に今日の日本社会が、まだ自己確立の途上にある若者たちに、どれほどの苦難を背負わせてしまっているのかを思ったのです。
 次は、今年一緒に勉強した1年生ゼミの話しです。今年は、「学校の解剖:学校は君たちをどのように創り、どのように傷つけたのか」というテーマで延々と議論をしました。
その中で、何故制服や服装の規則があるのかが話題となりました。何故ソックスの色が白でなければならないのか、何故髪の毛の長さが、耳の上に決まっていなければならないのか、誰も説明できませんでした。では何故、誰も説明できない規則がまかり通っているのか、これがテーマになったところで、分らなくてみんな黙りこみました。そのとき普段はなかなかしゃべらない若者が、ゆっくりとぼそっと言ったのです。「理不尽さに慣れさせるためかな?」これを聞いて、私は思わず唸ってしまいました。
 またこうした規則の理不尽さを若者が感じれば感じるほど、学校生活の中で、校則にはないのに、上級生が下級生に向かって押しつける非公式の規則というものも、多くの学校で発生していたことを知りました。
 こうした体験は何を物語っているか。それは今日、時代にふさわしい大学教育とは、教える教師と教えられる学生という非対称的な教育モデルによってではなく、教師も学生も相互に学習し合う主体として協働するという相互主体的な学習モデルによっておこなわれなければならないということです。私たち大人が知っていると思っていたこの世界について、実は大人たちは何も知っていない。そして私たちの目の前にいる君たち若者は、かつての1980年代末ぐらいまでの大学生とはまるで違う。そうであるとすれば、大学に存在する学習とは、この相互主体的学習モデルで進める以外にありません。このことを君たちと過ごした数年の体験から私たち教職員は、いま痛切に自覚しつつあります。この自覚に基づいて、長野大学という、この地に根ざした知的自己鍛錬の道場では、いま教職員と若者との深い内面的交流に基づく教育改革を進めようとしています。この教育改革をやり遂げる自己刷新能力を、果たして本学の教職員が持っているかどうか、この点を、どうか卒業生の皆さん、厳しく、そして温かく見守り続け、見届けてください。
さて、人生の黄昏にいま、辛うじて立つ老教師の私に、君たち若者の輝く若さはとてもまぶしい。そして君たちの知性の可能性や、ひとの痛みに共感する能力については、信じて疑わない。君たちは、一人一人が自分の価値を信じてよい。君たちは十分にそれに値する。君よ、君の価値に目覚めよ、と声を大にして、私は君たちに言いたい。
 けれども、私には、ひとつだけとても心配なことがある。どうして君たちはそんなに優しいのか。まわりの人のことにどうしてそんなに気を取られてしまうのか。そう思うのです。だからこそ、私がこれまでの生涯にわたって、何とか貫き通したいと願ってきた私の一個の信条を君たちにも送りたい。それは、13世紀から14世紀にかけて生きたイタリアの「世俗詩人」にして政治家ダンテが、その『神曲』の「煉獄」編の第5曲に書いた言葉です。

「汝何そ心ひかれて行くことおそきや、かれらのささやき汝と何の関わりあらんや
 己の信ずる途を行き、人々をして云うにまかせよ、
 風吹くとも、頂揺るがざるつよき櫓のごとく立つべし」
(山川丙三郎訳。一部改訳)

人間はひとりでは生きられません。周りの人たちとのつながりはとても大切です。だから私たちは連帯を瞳のように大切にしなければなりません。しかしぎりぎり最後によりどころとするのは、自分の信念と理想です。たったひとりで立つという覚悟さえあれば、どんな逆境もしのぐことが可能です。このことをどうか忘れないで欲しい。これが、あまりにも優しい君たちへの、私の切なる願いを込めた、送別の、そしてはなむけの言葉です。

長野大学学長
野原 光