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平成23年度卒業式 野原光学長告辞

 お気づきの方もあると思いますが、大学の正面玄関を入ったすぐ右手に東日本大震災で被害にあった宮古の写真がいくつも掲示されています。これは実際に被災した本学の一年生の若者が撮った写真です。ひとつひとつの切り取られた空間から、どうしてもみんなに知って欲しい、という彼の痛切な思いが伝わってくる、優れた写真集です。福島原発の災害で帰る故郷を奪われた人々の苦痛と合わせて、私たちは、この災害とその影響がこれからも長く続くことを忘れないでおきたいと思います。忘れないということは努力の要ることですが、やろうと思えば、誰にでも出来ることです。過去からなにごとも学ばずに、何ごともなかったかのように、ものごとが再開される、そういうことがしばしば繰返される私たちの社会では、とりわけこのことが大切だと思います。過去に無関心な者は、過去によって復讐されるからです。

 さてここにお集まりの社会福祉学部122名、環境ツーリズム学部70名、企業情報学部65名、計257名の卒業生の皆さん、本日はご卒業おめでとうございます。理事・監事および教職員一同、心よりお祝い申し上げます。またお忙しい中、多くのご来賓の方々のご臨席を賜り、厚く御礼申し上げます。

 ここに今日、大学を卒業される学生の皆さん、そしてこの若者達を苦労して育ててこられた御父母の胸には様々な思いが去来することでしょう。

 私も、皆さんを送るにあたって自分の学生時代を思い起こしてみました。私の大学のキャンパスは東京にありましたが、不思議なことに心に思い浮かぶのはキャンパスの外の出来事ばかりです。穂高の滝谷で岩登りの途中、向こうの笠ヶ岳にかかった雲を見て、天候の激変を予知して岩場を撤収するのに気が気でなかったこと、秋の奥又白の谷で、紅葉と澄んだ乾いた空気の中で、岩に打ち込むハーケンの音が、まわりの岩に幾重にもこだましてコーン、コーンと響いたその音色、唐松岳の先の「帰らずの剣」で、4日間猛吹雪に閉じこめられて、本当にもう帰れないのではないかと思ったこと。
 ずいぶん昔のことになり、たいていのことはぼんやりとした記憶の薄明の中に沈んでしまったのですが、いまでも鮮明に思い出せるのは、いずれも信州の山々のことばかりです。信州に育った多くの皆さんには当たり前のことで、いまはそのすばらしさを実感することもないかも知れませんが、東京にいても、関西にいても、信州というのは、はるかなる憧れの大地です。どうか皆さん、皆さんの育った信州の思い出を大切に、そしてこの自然を大切にはぐくんでいってください。

 さて皆さんはどんな学生生活を送ってきたでしょうか。泣いたり、喚いたり、笑ったり、じっとふさぎ込んだり、きっと実にいろんなことがあったことでしょう。ところで、いまここに神様が現れて、老年期の私に、もし希望するなら、いまもう一度、10歳代の終わりから20歳代のはじめを君にあげよう、どうするかね、といわれたら、私は、ハイ、御願いします、と即座に答えることは出来ません。何故なら、その時代の私には、あまりに恥ずかしくて、穴があっても入りきれないほどの数々の失敗があったからです。あの恥ずかしくて堪らない失敗をまた繰返すのか、と思うと、ハイ、もう一度青春をください、と答えることを、思わずためらってしまうのです。
 だから、あの数々の失敗をまた繰返すのは堪らない、とは思うのですが、いまになって思えば、まことに恥多きころ、それが青春なのかも知れません。皆さん、安心してください。神様は現れません。だから諸君にも私にも青春は一回しかないのです。そしてその青春とは、恥ずかしくてたまらないような、数々の失敗の累積です。でも多分、それでいいんですよ。肝心なことは、その失敗をこれから繰返さないことです。日本語には、体験と経験という、似ているけれど違うふたつの言葉があります。体験というのは、とにかく何か出来事に実際に遭遇することです。経験という言葉について言えば、その体験を自分の中で何度も反芻して、そこから学んだことを次のときに生かせるときに、その体験は、君の経験になったといえるのです。体験から学ばない人は何度でも似たような失敗を繰返します。たった一度の体験にせよ、そこからよく学んで経験を作りあげたひとは、次には、困難を見事に乗り越えていけるのです。
 ですから、君たちは、恥ずかしい、恥ずかしい自分の青春の記憶に萎縮してしまうことはありません。失敗の体験が多ければ多いほど、それを経験として身につけ、次に生かしていく可能性は広がるのです。これから未来を開いていく上で、失敗こそが君たちの宝です。

 さて、これから君たちは社会の荒海にこぎ出していくことになります。苦しいこともくじけそうになることも一度や二度ではないでしょう。人生とはまことに重い荷を背負って、長い坂道を登るようなものです。しかし、そのときに人はどうすれば困難に耐え、それを乗り越えることが出来るのでしょうか。それにはふたつの支えが必要だろうと思うのです。

 まず、人間とはまことにやっかいなことに、意識というものを与えられて生まれてしまいました。無邪気に、無意識に生きることが出来ない、つまり、なんのために、という問いを忘れることが出来ないのです。そういうやっかいな存在としての人間は、苦しいときにどうすれば、それに耐え、それを乗り越えられるのか。そのためには、自分を越えたなにか、なんでもいいのですが、自分の外にある、何々のために生きるという、何かがないと苦難を乗り越えることは出来ません。完全に自分のためだけに生きようと思っても、それでは底力が出てこないのです。自分の都合のためだけに生きているならば、いつでも、それは止めてしまうことが出来るからです。しかし自分の都合のためにだけ生きているのでないとしたら、簡単に自分の都合だけで生きることを止めてしまうことは出来ません。つまり自分を越えた何ものかのために生きる、これが必要であり、それは志を持つということですが、この志こそが、私たちに生きる力を与え、私たちの背筋をしゃんと支えてくれるのです。このことを、どうかいつまでも忘れないで欲しいのです。
 しかし志を掲げて長く生き続けることは容易ではありません。私が10歳代の終わりに、正体のよく分らない鬱勃たる憤懣と刺すような孤独感をもてあましていたころ、予備校の老練の古文の教師が、逆臣、足利尊氏にこの歌有りと教えてくれたのが、次です。

 奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 幾声なかば たれかこたえん

 この歌ひとつで、この古文の教師は僕にとって生涯忘れ得ぬひととなりました。そして、結局志を持ち続けるということは、「奥山に 紅葉踏み分け」た、迷い鹿の思いを、生涯持ち続けなければならないということでしょう。
 それでも人生とは不思議なものです。誰も自分の云うことなど聴いてはくれない、理解してはくれないと思っていても、その志に私心がなければ、きっとどこかで、思いがけない誰かが聞いていてくれます。君がどんなに大勢の批判を浴びていたとしても、きっとそっと近づいて来て、小声で、僕は君の言っていることが正しいと思うよ、大きな声で応援できなくて御免ね、といってくれるときがあります。これを君の友達といいます。こういうことは滅多にありませんが、必ずあります。このときに、君はこの人を見逃してはいけません。これが生涯の友であり、そしてこの存在が、もうひとつ、君たちが生きていくことを支えてくれる力です。
 こうして、志と本当の友、これをどうしてもみつけだしてください。そうすれば、私たちは、この人生の荒波に押し流されないで、自分の人生を生きることが出来ます。
 これをもって、君たちを送り出す、私のはなむけの言葉としたいと思います。