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平成22年度卒業式 野原光学長告辞

 はじめに東北・関東大震災という未曾有の大災害に遭われた同胞、さらにそれに引き続いて今なお進行中の福島原子力発電所の爆発・放射能汚染にさらされる同胞の皆さんに、謹んでお見舞い申し上げ、長野大学としても出来る限りの応援をさせていただくことをお約束申し上げたいと思います。
 
 地震というと、私はどうしても、経済学の創始者アダム・スミスが、5万人を超える死者の出た1755年のリスボン大地震に触れて述べたことを思い出してしまいます。皮肉屋のスミスは、人間の共感の能力に触れて、次のように述べています。私たちは、他人の遭遇した大地震には、そのときには大いに同情し、その同情を言葉にし、或いは行為にして表現するだろう。しかしそれを済ませれば、あたかもそんな突発事件が起こらなかったかのように、ひとは、再びもとの当たり前の生活に戻るだろう。けれども明日自分の小指が切られると決まっていれば、その当人は、一晩眠れぬ夜を過ごすだろう、と述べています。現地の人々の痛みはこの先も長く続くのですから、私たちは今できることをするとともに、たとえマスコミが報道しなくなっても、この人々の苦しみを長く記憶し続けることが必要だと思います。それが共感の能力をはぐくむということでしょう。 

 もうひとつ、大したことはない、大したことはないという希望的観測が次々に裏切られて、技術的な制御能力を超えて、次第に事故の深刻さが拡大してゆく。この福島原発の報道を見ていると、これは現代のバベルの塔ではないか、と私には思えてしまうのです。人類は自分たちの力を過信して、おごった末に、遂に天にまで届く栄華の塔を築こうとして、結局神の怒りをかいました。これがバベルの塔の寓話ですが、我々もいま、文明と技術の力を過信して、やってはならないことに手を出してしまったのではないか、自然に対する畏怖の心と人間の力というものの限界への自覚、このふたつ、言い換えれば人間を越えた大きな何かに向かって頭を垂れる、そういう精神を、いま私たちは取り戻す必要があるのではないでしょうか。

 さてここにお集まりの社会福祉学部179名、環境ツーリズム学部71名、企業情報学部76名(産業社会学部16名) 、計342名の卒業生の皆さん、本日はご卒業おめでとうございます。理事および教職員一同、心よりお祝い申し上げます。またお忙しい中、多くのご来賓の方々のご臨席を賜り、厚く御礼申し上げます。

 今年はまた新しい3学部になって初めての卒業生を送り出すという意味でも特別の年であります。思い出せば今から4年前、不安な新入生と同様に、私もまたおよそ30年ぶりに1年生のゼミを持つことになり、不安な気持ちで君たちと対面しました。ここでは忘れられないふたりの若者との出会いを語りたいと思います。ひとりは、いまの若者ふうに云えば、並外れて「ドハデ」な女子学生でした。私がゼミのたび毎に、何故そんなことが云える、何故だ、と繰り返すので、とうとう音をあげて「先生、もう駄目、頭が割れそう。今までそんなこと考えたこと無いんだから」といい出しました。私はこれを聞いてすごいな、と思いました。私がしつこく、何故だ、何故だ、と問いかけるのに応えようとして、彼女は、頭が割れそうになることをはっきりと自覚するほどまでに、考え続けてくれたのです。一体自分は、彼女のように、頭が割れそうになるほど考えたことがあるだろうか、と自分が恥ずかしくなりました。後日、ゼミが重苦しい沈黙に閉じこめられてしまったある日、そのときは何も言わなかったのに、彼女はあとでそっとメールをくれました。曰く、「先生、あんまり悩まないでね」。なんて優しいのだろう。40年近い大学教師生活で、新入生に情けをかけられたのは初めてです。私はこのことを、残る生涯で、決して忘れることはないでしょう。いま彼女は素敵な大人になって、この会場にいます。
 
 もう一人、すっかり脱帽させられた、男子学生の話をしたいと思います。あの女子学生と同じゼミでのことですが、私は、当時話題をよんでいたある哲学者の現代若者論をゼミで一緒に読んで、彼らを挑発しようと企てたのです。ところがひとり、露骨に「おもしろくねえ」という顔をして、横を向いている生意気な若者がいました。ある時ゼミのあとで呼び止めて、「なんでそんな態度を取るんだ、ちゃんと読んでから文句を言え」といいました。その学生は、「読んだ、けれどおもしろくない」、と言い返しました。「おかしいな、どこがおもしろくないのか云ってみろ」といったのですが、返ってきた彼の答えに驚かされました。彼のいったことを振り返って要約すると、要するに、これは似たもの同士の大人達が、勝手にそうだそうだと共感しあって喜んでいるだけじゃないか。僕ら若者は、この著者に全く共感するところがない。その僕たちになるほどと思わせるような論理を全く用意しないで、結論ばかり押しつけようとしている、というのです。ぎょっとして帰ってから読み直してみたのです。すると確かに、わたしはこの著者に共感しているから、そうだそうだと我が意を得たとばかりにおもしろがっていたのですが、よく注意してみると、そこには、この著者に共感しない人を説得する論理は何も用意されていなかったのです。私の場合は、共感が先立っていたから、この論理の欠落に、気がつかなかったのです。そこで、だらしがないことですが、すぐにこのテキストはやめにしました。

 このときに、この生意気な若者が、実は鋭く現代社会のひとつの問題をくっきりと切り取って私に突きだしていることに気がつきました。つまり、現代のように、人々が、異なる多様な価値観を持ってひしめいている時代に、その異なる考え方の持ち主同士が、意見を交わし、共感する余地を拡大するためには、どういう論理を用意しなければならないか、という問題を彼は私に突きつけたのです。言い換えれば、似たもの同士のやわな共感ではなくて、違った者同士が共感する余地を拡大していくことを可能にするような、忍耐力と研ぎ澄まされた論理をどうやって鍛え上げたらいいのか、この課題の存在を、彼は私にたたき込んでくれたのです。彼はあいかわらず生意気なままであまり授業に出ないので、単位が足りなくて、いまこの場にはいません。しかし忘れ得ぬ第一期生のひとりです。

 こうして私は学生に教えられっぱなしの駄目教師でしたが、要するに君たちに何が言いたいのか。それは、君よ、君の価値に目覚めよ、君の価値は君が思っているよりもずっと大きい、ということです。
 さて、これから君たちは社会の荒海にこぎ出していくことになります。苦しいこともくじけそうになることも一度や二度ではないでしょう。しかし、そのときに、ひとはどうすれば耐え、それを乗り越えることが出来るのでしょうか。人間はまことにやっかいなことに意識というものを与えられて生まれてしまいました。無意識に生きることが出来ない、つまり、なんのために、という問いを忘れることが出来ないのです。そういう存在は苦しいときにどうすれば、それに耐え、それを乗り越えられるか。そのためには、自分を越えたなにか、なんでもいいのですが、自分の外にある何かに向かって生きる、という何かがないと苦難を乗り越えることは出来ません。完全に自分のためだけに生きようと思っても、それでは底力が出てこないのです。つまり自分を越えた、向こうにある何ものかに向かって生きる、それは志を持つということですが、この志こそが、私たちに生きる力を与えてくれます。このことを忘れないで欲しいのです。

 はなむけにあたって、私はどうしてももうひとつ、付け加えておかなければなりません。現代人にとって、ほとんど人生の教師ともいうべき社会科学者マックス・ウェーバーは、人間社会で思想というものの持つ力を論じた或る本の註の中で、こう語っています。戦場の兵士はぎりぎり最後のところ、なんのためにたたかうか。それは国家のためでも思想のためでもない、肩が触れあう隣で、ともに銃を取っている戦友のためにたたかうのだと。このことはひっくり返していえば、私たちは、たとえひとりでも、本当の友達がいさえすれば、たいていのことには耐え、乗り越えることが出来るということです。このとき友達とは、ただ一緒に群れている人のことではありません。何か共通の目的に向かって助け合い、分かち合う人のことです。

こうして、志と本当の友、これをどうしてもみつけだしてください。そうすれば、私たちは、この人生の荒波に押し流されないで、自分の人生を生きることが出来ます。

これをもって、君たちを送り出す私のはなむけの言葉としたいと思います。