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教育・研究

第3回 若者たちへの伝言

【2022.6.28】
 山浦ゼミでは、6月24日(金)長野大学2-203教室にて上田市内にお住いの井沢二三様(93)、春原寿雄様(87)のお二人から太平洋戦争当時の体験をお聴きすることができました。

 井沢さんは、16歳で終戦を迎えました。戦時中は青年学校に通い、軍事教育を受けていました。当時は川辺村と言っていっていましたが、毎日のように出征兵士を見送る日々だったようです。「男は国のために命を捧げるのが当たり前」「人生20年」と考えていたようです。
昭和18年4月青年学校から3名が上田飛行場へ訓練に行くように命令されました。井沢さんは、そのうちの一人でした。上田飛行場ではグライダーの訓練のために小県郡から20名程が招集されました。
「目標、川辺小学校 ポプラ2本目」のかけ声とともにみんなでグライダーを引っ張って飛ばしていました。しかし、この訓練も1年余りで終了したようです。
 同年15歳の時、海軍飛行兵(予科練)を志願。上田市公会堂にて兵隊検査を受けました。
・フローリングで3回転程回されて、後ろから背中を押して、18秒ぐらい片足で立つ検査
・眼球検査など
・諸検査がありました。
井沢さんは、合格され12月三重の海軍航空隊へ入隊されました。
 10歳年上のお兄様も海軍に入隊し、「愛宕」に乗艦してフィリピン沖海戦に参加されました。しかし、潜水艦に撃沈され、運よく味方の艦船に救助され戦艦大和に乗って帰還されたようです。
 終戦近くなると、米軍の空母艦載機のグラマンが上田まで空襲にきて、機関砲を打っていきました。
 青年学校は3泊4日の軍事訓練をしたり、中等学校(旧制上田中学や小県蚕種学校)では北海道や菅平へ勤労奉仕に出かけ、「勉強なんかできません」
 男は国のために命を捧げることが当たり前でした。
 「両親は悲しかったと思う。」「ダメと言えません」
 お話は、この他
 沖縄復帰50年、ガマ(防空壕)では庶民や兵士が米軍の火焔放射器で亡くなりました。
 ウクライナでも、ロシアによる軍事侵攻が続いています。核兵器の問題もありますね。
「これは、絶対にいけないことです。戦争は勝者も敗者もありません。外交一本でやるべきです。
語気を強めて締めくくられた。

 春原さんは終戦当時10歳。当時を振り返ってお話しいただきました。
「小学校1年生の頃から大きくなったら兵隊さんになりたいと思っていました。当時は、戦争も連戦連勝のような景気の良い話ばかりだったように思います。」

〇上田空襲
 上田は、長野県で初めて空襲に遭いました。B29がやってきました。私たちは、怖くて防空壕に中に入って震えていました。
 「音は聞こえなかったけど、上田蚕種学校が焼失してしまった。外をみると稲わらに火が燃え移っていました。」
 父は、警防団に入っていて、上田蚕種にも消火に行きました。帰ってきたとき、私たちの恐れを和らげようと「みんな慌てていたので消火ホースを丸くつないでしまって水が出なかったんだ。」と言って笑わせてくれたことを覚えています。
「5~6歳でこんな経験をしたので、きっとウクライナの子どもたちも経験していると思うと…。」ことばを詰まらせていらっしゃいました。 
〇焼夷弾の不発弾を火に入れて実験していた。
 けがをしたり事故もあったようです。

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